2013.07.01
【紫陽花や藪を小庭の別屋舗】 芭蕉句
元禄7年5月上旬。最後の西上の旅を前にして子珊の別座敷で開かれた送別歌仙の際の発句。子珊編『別座舗』はこれを発句として編纂された。
(解説)
むやみと手の入った庭ではなく子珊の別座敷の庭は自然のままの庭であった。そこにはアジサイが梅雨を待つように咲いていたのである。永の別れになることを参列者たちは知っていたから座は寂しいものであった。
【澗水湛如藍】
弟子が大龍和尚に、「生身の肉体は必ず老いや病に侵されやがては死んで無くなりますが、老・病・死に左右されず永遠に滅びることのない生命・仏身・真理とは如何なるものでしょう」と。
すると、大龍和尚が応じて「山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し」。
意味は「山に咲く花々が錦を織り成すような百花繚乱の春景色に似ている。谷川の流れは時として渓谷の淵で水を青々と湛えているが、実際には淀む事無く流れ続けている」と。
人間は病む時は病む。死ぬ時は死ぬ。昨日は過去で変わらん。明日は未来で可能性しかない。無くなる、無くならないなどという二項対立に囚われ、拘り、偏った先入観でオロオロしてどうする。諸行は無常。永遠なることとは、全ての物事は変化流転し、増えず減らずということだけだ。
景色だって移り変わる。一瞬たりとも留まることはない。人間の心も同様。だからこそ、選好みは不要。ご都合主義はいらぬ。日々是好日。咲いてよし、散ってよし。降ってよし晴れてよし。濡れても乾いても永遠ではない。全てを“あるがまま”に受け止めてこそ『大安心』、即ち究極の幸せ。
平岡、深く感銘致しました!
この禅語の意味を調べてよかった。